アート批評の二面性 ── デメリット篇
表現の自由は誰かを傷つけることがある。シャルリ・エブド、Chim↑Pom、会田誠展、ろくでなし子 ── 伝わりすぎた批評が起こした衝突を整理し、配慮と責任の論理を描く。
連載 3/4。2/4 メリット篇 の続きです。
「自由な批評表現は、ときに誰かを深く傷つける。表現には配慮と責任が伴う」── この前提から見ると、メリット篇 で語られた「もっと意図を伝えよう」という主張は、別の顔を持ち始めます。
簡単に言えば、批評が伝わりすぎたとき、人は怒り、傷つき、ときに暴力で応答します。アート批評は 無条件に肯定できる行為ではなく、誰の何を傷つけるか を引き受ける覚悟がいる ── これが反対派の出発点です。
大前提としての「表現の自由」、ただし
大前提として 表現の自由 があります。表現の自由があるおかげで、大きな権力に屈することなく好きなように表現することができます。この自由がもしなかったら、私たちはどの情報を信頼すればいいのかも分からず、どんな意見があるかも分からなくなってしまいます。
しかしときに、その自由は誰かを傷つけたり、ルールに違反してしまうことがある。どこまでが自由なのか ── これが反対派が立ち止まる地点です。
シャルリ・エブド襲撃 ── 国境を越えた怒り
特に大きく伝わりすぎてしまった批評作品の例は、2015 年にフランスの週刊紙 シャルリ・エブド によって制作された風刺画が、イスラム過激派の感情を強く刺激し、結果としてシャルリ・エブドが襲撃を受けた事件です。

出典: 『表現の自由』どこまで許される? 仏風刺画はユーモアか、それとも侮辱か
シャルリ・エブドは ムハンマドの風刺画 を何度も掲載してきました。イスラム教では偶像崇拝が禁止されており、預言者を絵で描くこと自体が侮辱とされ得ます。
風刺画の側からは「表現の自由」、傷つけられた側からは「信仰の侮辱」。どちらの論理も内側から見れば筋が通っており、批評がここまで伝わってしまったとき、暴力以外の出口を見つけることは難しくなります。
Chim↑Pom と原爆ドーム
日本でも、表現の自由と配慮の難しさが浮き彫りになった案件がいくつかあります。

出典: 原爆ドームの空に“ピカッ”で『Chim↑Pom ─ ひろしま展』中止となった問題を考える
アーティスト集団 Chim↑Pom が、原爆ドームの上空に原爆を想起させる表現 を行ない、展示が中止になりました。
作家側の意図としては「忘れられつつある原爆の記憶を呼び戻す批評」として位置づけられたとされます。しかし被爆者・遺族にとっては、まさにその出来事そのものを揶揄する表現として受け取られた。作家の批評意図と、受け手の生活史 がここで衝突したのです。
会田誠展と性暴力表現

出典: 森美術館における「会田誠展」の性暴力展示に抗議を、について私的見解
少女をテーマに扱ってきたシリーズのなかで 性暴力を扱った作品 が展示され、女性団体などから抗議が起きました。
作家の側からは「批評としての描写」と説明されたとされますが、受け手の側からは「性暴力を娯楽化する表現の流通」として読まれた。批評は、そこに描かれている対象から見たとき、しばしば批評として読まれません。
ろくでなし子と「わいせつ」

出典: 「ろくでなし子」被告に一部無罪 「わいせつ」裁判で弁護団「歴史的」
女性器をかたどった作品が わいせつ物頒布等の罪 に問われた裁判です。
作家側の意図は「女性器をめぐるタブーそのものへの批評」だったとされます。しかし司法と社会の側からは、まずは表現の 形式 が問題視された。「何を批評しているか」よりも「何を見せたか」のほうが、社会的な反応を決めることがある ── 反対派はそう指摘します。
反対派のまとめ ── 自由と自分勝手は別物
批評は無条件に肯定できる行為ではない、と本気で考えるなら、現状のアート批評には深刻なデメリットが見えます。
- 表現の自由は、誰かの 信仰・生活史・尊厳 を傷つける可能性を常に抱えている
- 「批評のため」という作家の言い分は、傷ついた側にとっては免罪符にならない
- 大きな対象(戦争・宗教・国家)への批評ほど、返ってくる反応も大きくなる
- 法律やコミュニティのルールと、批評の自由は どこかで線を引かざるを得ない
- 自由と自分勝手はまったくもって別物 ── これが反対派の核心の言葉
ただしこの立場を突き詰めると、何も批評できなくなる という別の問題が現れます。賛成派と反対派のどちらにも逃げ場のない問いをどう引き受けるか ──。
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