アート批評の二面性 ── まとめ篇
伝わらなさすぎる批評と、伝わりすぎる批評。両側を行き来したあとで、アーティストと受け手はそれぞれ何を引き受けるべきか。「ちょうどよさ」を 3 つの問いから探る。
背景篇、メリット篇、デメリット篇 と読み進めていただいた最終回です。
「全く伝わらない側面」と「伝わりすぎる側面」── どちらもアート批評の現実です。では、どうしたら「ちょうどいい」のでしょうか。
ちょうどよさは、次の 3 つの問いから考えられるかもしれません。
1. アーティスト自身による表現への研究
そもそも何のために表現するのか、何のために批評するのか、批評してどうしたいのか ── これらの 具体的な設計と計画 がなければ、受け手に正しく意図を伝えることはできません。
逆に自分勝手に作りたいように作れば、その受け手もまた勝手に受け取るだけであり、その受け取り方が違法性や非道徳性につながることもある。自由と自分勝手はまったくもって別物 です。
つまり「表現の自由」を盾にする前に、作家の側に表現のリサーチがどれだけあるか が問われます。
2. 批評する相手・テーマが、大きすぎないか
例えばアーティストが「戦争反対」のテーマで制作したとします。それに感動した個人は、はたしてどうやって戦争をなくせるでしょうか。
その人が一国の大統領であれば戦争を止めることは可能かもしれません。しかし一般人ができることは、選挙で戦争を起こしそうな人を選ばないぐらいで、選挙では少数派がそれをしたとしても、大多数がそうしなければ意味がありません。
ここから言えるのは、アーティストはもっと 身近な問題、行動に移しやすい問題 を取り上げたほうが、批評の効果が出やすいかもしれない、ということです。テーマの大きさと、受け手の行動可能性のあいだに、適切な距離が要ります。
3. ただ関心を持ってもらうだけの活動に、どこまで意味があるのか
アーティストによって制作された表現だけで、アーティストの意図がすべて叶えられるわけではありません。例えば「戦争反対」を訴えたとしても、戦争はその構造を本質的に考えると、反対を訴えるだけではなくならないからです。
しかし戦争をしないために考えるきっかけになったり、他の人と戦争について話すときの話題提供として機能したり、日常の積み重ねのなかの 1 つ になることはあります。
人間は色んな要素のインプット(勉強や学習)が絡み合って、複雑なアウトプット(行動)が生まれます。アート批評もそのインプットの一つとして機能しているかもしれません。それが一時的には記号的な消費だとしても、です。
ボランティアを始めた直接の動機に「アートに触発されたから」と答える人は多くないとされます。しかし、自分の趣味や関心が大人になるにつれてできあがる過程のなかに、アートによる影響があったかもしれない ── そのレベルの寄与までを含めて、批評の効果を測る必要があります。
賛成派と反対派、どちらも捨てない道
メリット篇 の賛成派は「批評を読み解け、意図を尊重せよ」と言いました。 デメリット篇 の反対派は「自由は誰かを傷つける、配慮と責任を持て」と言いました。
この 2 つは、互いを無効化するように見えて、実は どちらが欠けてもアート批評は成立しません。
- 作家の意図が読まれないなら、批評は記号として浪費される
- 受け手の感情が無視されるなら、批評は他者への暴力になる
賛成派が言う「意図への尊重」と、反対派が言う「他者への配慮」── どちらも、相手側の論理を一度自分のなかに通してからでないと、まっとうには立ち上がりません。
あなたはどちらの前提に立つか
「批評は伝わらなさすぎる」と感じるのか。 「批評は伝わりすぎる」と感じるのか。
おそらく、同じ人が時と場合によって両方を行き来します。ある作品の前では作家の意図を尊重し、別の作品の前では受け手の傷つきを優先する。この行き来そのものが、アートに対する成熟した態度 だと kumoism は考えます。
「賛成 / 反対」「自由 / 規制」の二択を急ぐ前に、まずこの二面性を往復してみる ── そのこと自体が、本連載でやりたかったことです。
あなたは、次にアートと出会うとき、どちらの前提から見始めますか。
連載をはじめから:
→ 1/4 背景篇 → 2/4 メリット篇 ── 伝わらない批評と、消費される作品 → 3/4 デメリット篇 ── 伝わりすぎる批評と、傷つく誰か