出産育児の二面性 ── まとめ篇
自己責任と国民協力を行き来したあと、そのあいだに広がるグレーゾーンを整理する。誰の子どもを、誰が、どこまで支えるのか ── 単純な二択ではなく確率分布として設計する道について。
背景篇、自己責任篇、国民協力篇 と読み進めていただいた最終回です。最後にメリットとデメリットの中間と、その周辺の補足についてまとめます。
「自己責任」と「国民協力」は二択ではない
自己責任篇の前提は「子育ては個人の自由な選択」、国民協力篇の前提は「子育ては社会全体の公共財」でした。しかし現実の家族や政策はそんなに簡単に二分できません。
実際の制度はほとんどの場合、その 中間のどこか で運用されています。例えば日本の現行制度でも、
- 保育料には所得に応じた負担がある(一部は自己負担)
- 一方で実費の大半は税金で賄われている(一部は協力)
- 移住して育てるか、都市で共働きするかは家庭の選択(自由)
というように、両方の論理が併存しています。問題は「どちらを選ぶか」ではなく、「どこからどこまでを自己責任に、どこからどこまでを国民協力に置くか」という線引きの問題なのです。
移民問題は出産育児問題の裏側にある
自己責任を強く徹底すれば、子どもの数は構造的に増えにくくなります。そうなれば、防衛・医療・建設・サービスといった公共サービスの担い手は 移民で補う という選択肢が現実味を帯びます。
逆に、国民協力で子育てを支えて出生数を増やせれば、移民への依存度は下がります。
つまり、「移民を受け入れるか」と「子育てを公的に支えるか」は、本質的に同じ問いの裏側 です。どちらも避けたいなら、社会の規模そのものを縮める覚悟が要ります。どれが正解というわけではなく、どの不可逆コストを引き受けるか という選択になります。
「子育てに向いていない人」もいる、という前提
メリット篇・デメリット篇のどちらでも、「全員が理性的に子育てを設計できる」または「全員が公共財として受け入れる」という前提を置きました。しかし現実には、
- 親になることを望まない人
- 親になっても向いていなかった人
- 子どもが好きではない人
が一定割合で存在します。これは性別・世代・職業を問わず、確率分布として 存在します。
「全員が自己責任で正しく選ぶ」「全員が税金で気持ちよく協力する」 ── このどちらにも振り切らず、人口の数 % は子育てに参加できない/したくない、という前提に立って制度を設計する道 があります。例えば:
- 子育て世帯への支援は税で行いつつ、希望しない世帯には別形態の社会貢献ルートを用意する
- NPO・地域コミュニティ・親族ネットワークなど、国家と個人のあいだの中間共同体 に再投資する
- 保育サービスの「現物給付」と、子育て世帯への「現金給付」を組み合わせる
これは BI 連載の まとめ篇 で書いた「人間は理性的でもあり感情的でもある」という発想と地続きの考え方です。
経済の前提が変われば、答えも変わる
経済成長率が高いか低いかも、出産育児を考えるうえでとても大事な論点です。
- 企業が年々成長していて、給与が増え、税収も年々増える社会
- その逆の状態の社会
このふたつでは、出産育児を支える施策が大きく変わります。日本は以前に比べれば、生産が過剰状態にあり消費が伸びにくい傾向 にあるとされます。その中で女性の労働参加だけで税収を増やせるのか、それとも国内消費を底上げする別の仕組みが要るのかは、慎重に観察する必要があります。
「絶対解決されるべき」と見えやすい問題ほど、二面性に気づきにくい
少子化は、高齢化と重なり、人口問題と重なり、「赤ちゃん/子ども」という強い感情を呼ぶ対象を含んでいます。そのために他の社会問題よりも「絶対解決されるべき」と見られがちです。
しかしここまで見てきたように、解決の方向にも良い面と悪い面があります。
- 自己責任を強めれば、自由は広がるが、社会の担い手は薄くなる
- 国民協力を強めれば、担い手は確保できるが、関心のない人にも負担が及ぶ
- どちらも避けようとすれば、結局は移民か縮小しかない
「やるべき」「やめるべき」の二択を急ぐ前に、この二面性を行き来してみる ── そのこと自体が、kumoism がこの連載でやりたかったことです。
子どもを 誰のもの と見るのか。その問いに正解はありませんが、自分がどの前提に立っているかを自覚することは、議論の質を確実に変えると考えられます。
連載をはじめから:
→ 1/4 背景篇 → 2/4 自己責任篇 ── 自由な子育てとその代償 → 3/4 国民協力篇 ── みんなで育てる社会の光と影
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