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第4章「治療と私的保険、ありがとう」── 保険と銃 ── アメリカの二面性

救急車のなかで、俺はMettlifeの担当者から差し出された明細書を見る。「自己負担、ゼロ」。20年払い続けた保険料が今日、家族の代わりに立ち上がった。

第3章「逮捕する」の続きです。

第4章「治療と私的保険、ありがとう」

救急車のなかは、思っていたほど静かではなかった。

エンジンの低い唸り、サイレンの遠い反響、ストレッチャーの金属がきしむ音、そして、救急隊員が無線機にこちらの状態を報告する声 ── そのすべてが混ざり合って、ぼんやりとした白いノイズになっていた。

俺は、左肩から二の腕の傷に、止血帯を巻かれた状態で、ストレッチャーに横たわっていた。点滴の針が、右腕の血管に刺さっている。意識は、まだはっきりとしていた。痛みはあるが、20 年の現場で何度も負ってきた打撲や挫傷の延長線上に、なんとか位置づけられる程度の痛みだった。

「ヘンダーソン、もう少しで病院に着くからな」 救急隊員のマルコが、俺の顔を覗き込んで言った。彼とは、別の現場で何度か顔を合わせている。 「大丈夫だ。動脈は外れてる」 「お前が一番、自分の傷をよくわかってるな」 マルコは少しだけ笑った。俺も、口角だけで返した。

救急車のドアが開き、ストレッチャーが病院の救急搬入口へと運び込まれる。蛍光灯の白い光が、目に刺さった。

待っていたのは、医師と看護師のチームだけではなかった。Mettlife の青いジャケットを着た、若いスタッフが、クリップボードを手に、笑顔で待っていてくれた。

「ヘンダーソンさん。Mettlife の担当、ジョナサンです。担当医からの連絡で、駆けつけました」 「……ご苦労さん」 俺は、ストレッチャーの上から、彼にちらりと目をやった。 「奥様にも、もう連絡してあります。15 分後に到着予定です。お子さんは、学校から直接、病院に向かっています」 「助かる」

俺は、安堵で目を閉じた。妻のローラと息子と娘のことが、頭をよぎる。

ジョナサンは、続けた。 「手術室はもう準備が整っています。今回の銃創、入院、リハビリ、すべて、ヘンダーソンさんが加入されている Plus プランでカバー済みです。自己負担はゼロです」 「……そうか」 「業務中の傷害特約も、もちろん適用されます」

俺は、ゆっくりと息を吐いた。

20 年。月々の保険料を払い続けてきた。家計が苦しいときも、ボーナス月にはちゃんと払った。妻のローラに「ねえ、もう少し安いのに変えない?」と言われたこともあった。それでも、俺は **「いや、Mettlife の Plus がいい」**と譲らなかった。

理由は、単純だった。

** 自分で選んだ保険で、自分の家族を守りたかった。**

政府に決められた保険ではなく、自分で比較して、自分で納得して、自分で月々の小切手にサインして払い続けた。それが、俺が「自分の人生の主導権を持っている」と感じられる、もっとも具体的な行為だった。

そして今日 ── その判断が、家族のかたちで、俺に返ってきた。

俺が病院のベッドの上で動けない数週間、収入は途絶える。けれども、保険会社がその間の収入を補償してくれる。リハビリの費用も、薬代も、家族のメンタルケアも、すべてカバーされる。

これがなかったら、どうなっていただろう。

俺は、屋上で対峙したあの容疑者の声を思い出した。「うちの母親が、病気なんだ。手術代がいる。保険、ないんだ」

俺と、彼の違いは、何だったのか。

俺は、20 年警察をやって、月々の保険料を払う余裕があった。彼は、おそらく、その余裕がなかった。あるいは、保険会社のパンフレットを読む時間が、彼の人生にはなかった。あるいは、誰も彼に **「保険に入っておけ」**と教えてくれる大人が、そばにいなかった。

俺は、運がよかった。だから、自由を選べた。自由は、選べる人だけのものなのかもしれない。

その思いが、ふと、胸の奥をかすめた。けれども、俺はその思いを、しばらく胸の中にしまっておくことにした。今日は、まず、無事に手術を終えることが先だ。家族の顔を見ることが先だ。

ジョナサンが、もう一度、笑顔で言った。 「ヘンダーソンさん。長年のご加入、ありがとうございます。今日のような日のために、私たちはいます」 「……こちらこそだ」 俺は、わずかに口角を上げた。 「自分で選んで、自分で払ってきた保険が、今日、俺の代わりに立ち上がってくれた。それが、何より、誇らしい」

ジョナサンは、軽く頭を下げると、ナースステーションのほうへ歩いていった。

俺は、点滴を眺めながら、無意識に呟いていた。

「治療と、私的保険、ありがとう」

手術室のドアが開く。蛍光灯の光が、また目に刺さる。麻酔のマスクが、俺の口元に下りてきた。

意識が遠のく寸前、ローラの声が、入口のあたりから聞こえた気がした。

「ジェイク、待ってる」

俺は、目を閉じた。

20 年、自分の銃と、自分の保険で、家族を守ってきた。その続きを、また明日から始めるのだ。

エピローグ

手術から 3 週間。リハビリを終え、俺は退院した。

退院の朝、病室の窓の外には、サンアントニオの澄んだ秋空が広がっていた。点滴の管が外れた腕は、まだ動かしづらかったが、少しずつ感覚が戻りつつある。

ローラが、迎えにきた。息子と娘も、学校を半休して、ロビーで待っていた。

「父さん、おかえり」 息子のジェイミーが、ぎこちなく俺の右手を握った。普段は無口な 16 歳だが、今日はその目に、はっきりと安心の色があった。

家に帰ると、近所の人たちが、玄関先で待っていてくれた。隣のミラー家のおじいさんが、自家製のチリビーンズを持ってきてくれて、向かいのロドリゲス家の奥さんが、ホームメイドのトルティーヤを焼いて待っていてくれた。

「ジェイク、ご無事で何よりだ」 「ジェイク、お疲れさん」 俺は、一人ひとりと握手をしていった。

夜、家族と食卓を囲んだ。久しぶりに、4 人で同じ皿を分け合った。テキサスの夜風が、窓から入ってくる。リビングの壁には、20 年前の警察学校の卒業写真が、今でも飾られている。

ローラが、ワインを少しだけ注いでくれた。 「あなた、本当に、お疲れさま」 「ああ」 俺は、一口、それを口に運んだ。 「俺は、明日も、銃を持って、家を出る。それが、俺の仕事だ。けれども、今夜は、家にいる」

ローラは、静かに笑った。

俺は、自分のホルスターに、そっと触れた。明日からまた、これは右半身の一部に戻る。

夜更けに、ジェイミーが、リビングに降りてきた。 「父さん、ちょっと聞いてもいい?」 「ああ」 「保険って、どうやって選ぶの? 俺、大学に行ったら、自分のぶんは自分で選びたいんだ」

俺は、息子の顔をじっと見た。16 歳の、まだ少し幼さの残る顔。

「ジェイミー、それは、お前自身の生き方を選ぶってことだ。一緒に、選び方を教えてやる」

ジェイミーは、頷いた。

俺は、リビングのソファに座り直し、息子に向かって、長い長い話を始めた。


しかし、海を挟んだカリフォルニアのダイナーでは、まったく違う論理で「自分の守り方」を選んだもう一人の主人公がいる。彼女は、自分一人の銃でも、自分一人で選んだ民間保険でもなく、見知らぬ誰かが少しずつ出してくれた税金で、今日、息をしている。

→ もう一方の風刺画: 第1章「アルバイトで暮らす日々」

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