第1章「アルバイトで暮らす日々」── 保険と銃 ── アメリカの二面性
カリフォルニアのダイナーで朝7時から働くエマ、22歳。短時間バイトを掛け持ちしながら、ようやく手に入れた公的保険。紅茶のように湯気の立つ毎日の物語。
プロローグ
朝、目を覚ますと窓の外はまだ薄暗い。カリフォルニアの冬は、東海岸ほど寒くはないけれど、シェアハウスの古い壁は冷気をそのまま通す。私は薄い毛布を頭まで被ったまま、しばらく天井を見上げていた。
携帯のアラームは午前 5 時 45 分。あと 15 分だけ、と何度繰り返してきたかわからない。けれども、結局は起き上がる。だって、6 時 30 分にはダイナーの裏口を開けなければならないから。
寝起きの口の中に、昨夜の冷たいピザの後味がまだ残っている。シンクで顔を洗いながら、鏡に映る自分を見る。目の下のクマは、もうずっと前から消える気配がない。
それでも、今日は機嫌がいい日だ。先週ようやく保険証を受け取ったから。財布の中で、薄いプラスチックのカードが息をしているように感じる。
「エマ、おはよう」 シェアハウスのキッチンで、ルームメイトが眠そうな声でそう言った。彼女もまた、別の店のシフトに向かう途中だった。 「行ってくる」 私は笑顔を返し、玄関のドアを閉めた。
これから始まる一日は、きっと忙しい。けれども、その忙しさのなかに、私はやっと「自分が大事にされている」という感覚を持ちつつあった。
第1章「アルバイトで暮らす日々」
私はエマ、22 歳。カリフォルニア州のとある町で、ダイナーのウェイトレスをしている。短時間のシフトを二つの店で掛け持ちしていて、週に 6 日、合計で 50 時間以上は立ちっぱなしの生活だ。
ダイナーは古い 1950 年代の内装を残していて、赤いソファ席、銀色のカウンター、壁にはエルヴィスのポスター。お客さんは、近所の年金生活者、出勤前のトラック運転手、子連れの家族、たまに観光客。みんなお気に入りの席があって、「いつものね」と言われれば、私は答える前にカップを取りに走る。
紅茶のポットを片手に、私はテーブルからテーブルへ歩いていく。湯気が立ち上る瞬間の香りが、私はずっと好きだった。子どもの頃、母が誕生日に出してくれた紅茶の匂いを思い出させるから。
母は、私が高校を出てすぐに、再婚相手と一緒に州外へ引っ越した。「あなたはもう大人なんだから、自分でなんとかしなさい」と笑顔で言われた。当時の私には、何が悲しいのかすら、よくわからなかった。ただ、急に世界が広くなって、そのぶん寒くなった、と感じたのを覚えている。
大学に行く余裕はなかった。そもそも、私の高校から大学に進む人は、クラスの 3 分の 1 もいなかった。学費の話を始めると、みんなの顔がすっと曇る。「奨学金を借りる」というのは、未来の自分にローンを背負わせる、という意味でしかない。
だから、私はウェイトレスを選んだ。最初は時給 11 ドル。チップを入れても、家賃と食費を払うとほとんど残らない。それでも、立ち上がって店に出れば、お客さんが笑顔で迎えてくれる。「今日も元気そうだね」と言ってくれる常連がいる。それが、私にとっての給料の半分くらいの価値があった。
問題は、保険だった。
ダイナーは小さな個人経営で、雇用主からの健康保険の提供はない。短時間労働の従業員には、雇用主が保険を負担する義務がないと説明された。ほかの店も同じだった。風邪を引いても、お腹が痛くなっても、病院に行くという選択肢は、最初から私の人生にはなかった。
去年、ひどい歯の痛みで眠れなくなった夜、私は「我慢する」以外の選択肢を持っていなかった。痛み止めを倍量飲んで朝まで耐え、シフトに出た。ティーポットを持つ手が震えた。
それでも、誰にも言わなかった。「保険がないから歯医者に行けない」と告げたところで、誰がそれを解決してくれるわけでもない。それが、私の人生だった。
けれども、状況は少しずつ変わりつつあった。
ある日、店に来た常連の男性 ── 黒人で、近所の小学校の校長を引退したばかりの人 ── が、新聞を広げながら言った。 「エマ、お前、保険は入ったか?」 「いえ。私みたいな働き方だと、入れないんです」 彼は新聞のあるページを指で叩いた。そこには、Affordable Care Act(通称 オバマケア)の登録期限についての記事があった。 「これに登録しろ。所得が低ければ補助が出る。歯も診てもらえる」 私は紅茶のポットを下ろし、しばらくその記事を見つめた。
その夜、シェアハウスのルームメイトに頼んで、古いノートパソコンを借りた。州の医療保険マーケットプレイスのウェブサイトに、所得と扶養家族の情報を入力する。手が少し震えた。
数週間後、薄いプラスチックの保険証が郵便で届いた。封筒を開けたとき、私は声を出さずに、ただ何度もそのカードを撫でていた。
これで、歯医者に行ける。 これで、風邪を引いても病院に行ける。 これで、ようやく、私も「大事にされる側の人間」になれる。
そのカードの裏には、私の名前が小さく印字されていた。エマ・カーター。22 歳。米国市民。
その日から、私はティーポットを持つ手に少しだけ余裕が生まれた気がする。今日も、紅茶の湯気の向こうで、常連たちが私に手を振ってくれる。「いつものね」と。
私は笑顔で答える。「いつものね、すぐ持っていきます」。
このダイナーの片隅で、私は、ようやく息ができるようになった。
→ もう一方の物語: 第1章「これは強盗か?」
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