第4章「他人のお金で治る朝」── 保険と銃 ── アメリカの二面性
病院の白いシーツの上で、エマは支払い明細を見つめる。「あなたの保険でカバー済みです」という1行に込められた、見知らぬ誰かの善意と税金の重み。
第3章「限界の朝」の続きです。
第4章「他人のお金で治る朝」
目を覚ますと、白い天井があった。
ゆっくりと首を動かす。窓の外には、午後の日差しが斜めに差し込み、壁の白いカーテンを淡く揺らしている。腕には点滴の管が刺さっていて、心電図の音が、規則的に小さく鳴っていた。
私は病院のベッドの上にいた。
「気がついたのね」 ベッドの脇から、看護師さんの優しい声がした。栗色の髪を後ろで束ねた、私と同じくらいの年齢の女性だった。 「ここは……」 「市民病院よ。エマ・カーター、22 歳でいいわね? 昨日の朝、ダイナーの常連の方に運ばれてきたの。脱水と過労、それから軽い肺炎の兆候があった。今は安定してるから、心配しないで」
私は、深く息を吸った。空気の味が、少しだけ消毒液っぽい。それでも、自分の肺が動いている感触が、嬉しかった。
しばらくして、医師が回診に来た。白衣の、年配の男性で、目元には深い皺がある。 「エマ、もう少しで本当に倒れてたよ。今後、ちゃんと休む癖をつけなさい」 「はい……」 「で、保険の手続きはこっちで進めておいた。Affordable Care Act の補助対象だから、自己負担はほぼゼロだ。安心して治してから出ていきなさい」
医師は、それだけ言うと、次の病室へ歩いていった。
ナースステーションから、A4 サイズの請求明細が運ばれてきた。私は、点滴の管に気をつけながら、ゆっくりとそれを手に取った。
請求総額: $3,824.50 保険適用後の自己負担: $0.00 備考: 「あなたの保険でカバー済みです」
私はその数字をしばらく見つめた。3,800 ドル ── 私のひと月の手取りに、ほぼ等しい。それを、見たこともない誰かが、私の代わりに払ってくれている。
正確に言えば、払ってくれているのは「誰か」ではない。私の隣の州で働いている人たち、私のダイナーのカウンター席に座る年金生活者、毎月の小切手から少しずつ税金を引かれている全米のあらゆる労働者たち、そして政府が運営している保険のプール。私のために、その全員が、ほんの少しずつお金を出してくれている。
私はベッドの上で、薄い保険証を握りしめた。先週、自分で財布に入れた、あのカード。
何より不思議だったのは、**「申し訳ない」**という気持ちが、思っていたよりずっと小さかったことだ。むしろ、「ありがたい」のほうが、ずっと強かった。
なぜだろう。考えてみる。
おそらく、それは、私自身も、いつか誰かを助ける側に回るからだ。今は受け取る側だけれど、私はあと 40 年以上働く予定だ。その間、私の給料からも、毎月少しずつ税金が引かれていく。その税金は、今日の私のような誰かのもとに、形を変えて届いていくはずだ。
つまり、これは **「他人のお金で治っている」のではなく、「未来の自分のお金で、今の自分が治っている」のかもしれない。あるいは、「過去の自分のような誰かのために、今の私が払い続ける」**という約束のはじまりかもしれない。
夕方、ルームメイトと、ダイナーの店長と、あの校長が、病室に見舞いに来てくれた。校長は花を、店長は手作りのスープを、ルームメイトは私の充電器と着替えを持ってきてくれた。
「エマ、復帰するまで、シフトは抜いておくから安心しろ」 店長はそう言った。普段は無口な人だ。 「ありがとうございます」 私は、頭を下げた。
校長は、ベッドの脇の椅子に腰掛け、私の手を軽く叩いた。 「俺はな、若い頃、保険がなくて治療を諦めた弟がいた。お前は治療を受けられた。これは進歩なんだ。お前が恥じることは何もない」 「……はい」
私の頬を、涙が一筋伝った。それでも、笑顔だった。
夜、消灯時間が近づいて、見舞いの人たちが帰っていった。私はベッドの上で、もう一度、明細書を見つめた。$0.00 という数字。
そして、その下の小さな行に、こう書かれていた。
「アメリカ合衆国の納税者により、あなたの治療費はカバーされました」
私は、その紙を胸の上に置いて、目を閉じた。
明日、退院したら、もう少し丁寧に紅茶を淹れよう。常連たちに、もう少し時間をかけて挨拶しよう。私を助けてくれたこの社会に、私のできる小さなお返しをし続けよう。
それが、私が選んだ、この国での生き方だ。
エピローグ
退院から 2 か月が経った。
私はダイナーに復帰した。今は、もう一つ別の店のシフトを減らし、週に 40 時間に抑えるようにしている。店長が「無理するな」と言ってくれたこと、お客さんが「ゆっくりでいいよ」と言ってくれたこと ── そういう小さな赦しが積み重なって、私は今、深く眠れるようになった。
休日には、地域の保険相談ボランティアにも参加するようになった。私のように、自分が補助を受けられることを知らない若い人たちに、申請の方法を教えるのだ。 「あなたも、対象になる可能性がありますよ」 そう声をかけると、相手の表情がふっと和らぐ瞬間がある。あの瞬間が、私は好きだ。一年前の自分自身に手を差し伸べているような気がするから。
紅茶のポットを片手に、ダイナーの銀色のフロアを歩く。湯気が立ち上り、私の頬を撫でる。
私は、もう一人ではない。私の後ろには、私を助けてくれた見知らぬ納税者たちと、私の前を支えてくれる常連たちがいる。
「いつものね、すぐ持っていきます」
私は今日も、笑顔で答える。
しかし、海を挟んだテキサスの街では、まったく違う論理で「自分の守り方」を選んだもう一人の主人公がいる。彼は、見知らぬ誰かに頼ることではなく、自分の腰に下げた銃と、自分で選んだ民間保険で身を守ろうとしている。
→ もう一方の風刺画: 第1章「これは強盗か?」
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