第3章「限界の朝」── 保険と銃 ── アメリカの二面性
ダイナーの床にエマが崩れ落ちる午後3時。湯気の立つ紅茶のポットが手を離れ、銀色の床に弧を描く。お客と店員の境目が消えた瞬間、街は一人の若者を見つめた。
第2章「忙しさのなかで倒れる日」の続きです。
第3章「限界の朝」
翌朝、私は起き上がれなかった。
シェアハウスの薄いカーテン越しに、白い光が差し込んでいる。携帯のアラームが午前 5 時 45 分に鳴ったとき、私は手を伸ばしたが、その手が毛布の中から出てこなかった。
体が、鉛のように重い。
それでも、行かなきゃいけない。「明日も来てね」と昨日の常連たちに笑顔で答えた。シフト表に書かれた私の名前が、頭の隅で点滅している。
何とか体を起こし、洗面所まで歩こうとした。けれども、ベッドから 2 歩で、足がもつれた。壁に手をつき、しばらくその場で呼吸を整える。鏡を見る気力さえなかった。
「エマ、起きてる?」 ルームメイトがドアの外から声をかけた。 「うん、大丈夫……」 答える自分の声が、自分ではない誰かのもののように聞こえた。
何とか着替え、玄関に立つ。バスに乗って、ダイナーの裏口を開けたとき、店長がぎょっとした顔でこちらを見た。 「エマ、お前、本気で来たのか」 「シフトに穴あけられないので」 「いいから、座れ」
店長は私を厨房の椅子に座らせ、水を一杯渡してくれた。けれども、座ってしまうと、もう立ち上がる気力が湧かなかった。視界がぐらぐら揺れる。耳の奥で、低い音が響いている。
「今日はあがれ。代わりに俺がフロアに出る」 「……でも」 「いいから。お前、倒れる前に病院に行け」 店長は、それだけ言うと、エプロンを首にかけて店内へ出ていった。
しばらくして、開店時間が来た。常連たちが、いつも通り入ってくる。けれども、いつもならフロアにいる私が、今日はいない。代わりに、エプロン姿の店長が、ぎこちなくコーヒーを注いでいる。
「エマはどうした?」 カウンター席の引退した校長 ── 私に保険のことを教えてくれた、あの常連 ── が、店長に尋ねた。 「奥で倒れそうになってる。病院に連れていきたいんだが、人手が足りなくて」
その声が、厨房の私の耳にも届いた。私は、椅子の背に体を預けたまま、目を閉じていた。
── 私のために、誰かが立ち止まらなければならない。
それが、私には何より辛かった。私はずっと、誰かに「立ち止まってもらえない」側の人間として生きてきたから。母も、父も、私を見て足を止めることはなかった。同級生も、私を選ぶことはなかった。
なのに、今、ダイナーのお客さんと店長が、私のために立ち止まろうとしている。
校長は静かに椅子から立ち上がり、コーヒーカップを置いた。 「俺の車で病院に連れていく。エマ、立てるか?」 私は首を横に振った。 「立てます。一人で行けます」 「いいから。お前、立ち上がってこっちに来てみろ」 私は言われたとおり、ゆっくり立ち上がろうとした。けれども、その瞬間、足元が崩れた。校長が素早く支えてくれた。
そして、トラック運転手の常連も席を立ち、私の反対側の腕を取ってくれた。3 人で、ゆっくりと駐車場へ向かう。秋の日差しが、銀色のフロアに反射して、まぶしかった。
「無理するなよ、エマ」 「保険に入っててよかったな」 「お代は気にするな。お前は休め」
その声が、私の頭の上で交差していった。私は涙がにじむのを必死で堪えた。涙を見せたら、もう立ち上がれない気がしたから。
校長の車に乗せられたとき、私の手から、紅茶のポットが滑り落ちる幻覚を見た。湯気が、銀色のフロアの上で静かに弧を描く。そのとき、私は初めて、自分が **「限界」**という場所に立っていることを認めた。
車のエンジンがかかる。私は窓の外を流れていく街並みをぼんやりと見つめた。
街は、いつも通りだった。けれども、車の中の私のために、世界が少しだけ立ち止まってくれていた。それが、信じられないほど、温かかった。
→ もう一方の物語: 第1章「これは強盗か?」
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