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第2章「忙しさのなかで倒れる日」── 保険と銃 ── アメリカの二面性

クリスマス商戦のダイナーで、エマは立ち止まることを許されない。額に張りつく汗、薄い咳、霞む視界。誰にも「無理」と言えなかった私の声を、保険証だけが聞いてくれた。

第1章「アルバイトで暮らす日々」の続きです。

第2章「忙しさのなかで倒れる日」

クリスマスを 2 週間後に控えた水曜日、ダイナーは朝から戦場のように忙しかった。

街のメインストリートには赤と緑のリースが飾られ、街路樹に巻きついた電球が日中でもちらちらと光っている。観光客と地元の人が入り混じり、店の外には常に 5、6 人が席が空くのを待っていた。

私は朝 6 時 30 分から、もう 5 時間走り続けていた。注文を取り、皿を運び、空いた皿を下げ、コーヒーを注ぎ足し、子どもがこぼしたミルクを拭く。同じ動作を、息を継ぐ間もなく繰り返す。

そして、額には汗が浮いている。

「エマ、5 番テーブル、フライドエッグ追加だって!」 キッチンから店長の声が飛ぶ。私は「はい!」と答え、紅茶のポットを片手に厨房へ向かおうとした、その瞬間 ── 視界の端が、ふっと白く霞んだ。

足が一瞬、もつれた。けれども、転ばずに踏みとどまる。誰にも気づかれていない。私は深呼吸をして、何事もなかったかのように歩き出した。

実は、その朝、家を出るとき、すでに熱があった。前夜、ルームメイトが「あんた、顔赤いよ」と言ってくれていた。シフトに穴をあけることは、私には選びにくい選択肢だった。

短時間労働者には、有給の病欠がない。

休めば、その日のシフト分の収入はゼロ。代わりに入ってくれる同僚を探さなければ、店長に迷惑をかける。何より、私が休めば、ほかの 3 人で 5 人ぶんを回すことになる。みんなクリスマス前で家賃と贈り物のためにギリギリのところで働いている。誰にも「無理」と言えなかった。

紅茶を運ぶ手が、ほんの少し震えていた。湯気が立ちのぼり、私の頬を熱く撫でる。けれども、その熱さよりも、自分の体の内側の熱さのほうが、ずっと高かった。

「エマ、これ、ありがとう」 カウンター席の常連のトラック運転手が、私のカップに気づいて声をかけてくれた。私は **「いえ、いつものですから」**と笑顔を作る。けれども、その笑顔が、自分でも頬の上で固まっている気がした。

軽い咳が出た。最初は小さく、口元を肘で押さえる程度だった。けれども、午後に入る頃には、それは収まらなくなっていた。

「エマ、大丈夫か? 顔色、紙みたいに白いぞ」 店長が、厨房から首だけ出して言った。 「大丈夫です。ちょっと風邪気味なだけで」 「無理するな。誰か呼ぼうか?」 「いえ、もうランチ・ラッシュは終わったので、夕方まで耐えれば ──」

そのとき、店のドアが開き、また 4 人組の家族が入ってきた。子どもたちが大きな声で「ハンバーガーとミルクシェイク!」と叫ぶ。私は **「いらっしゃいませ、お席にご案内します」**と応える。声は出ているのに、自分の声が遠くで聞こえる気がした。

午後 3 時。ようやく一段落して、私は厨房の裏のドア脇に座り込んだ。コップ一杯の水を一気に飲み、頭を壁に預けて目を閉じる。

── 大丈夫。あと 3 時間だけ。あと 3 時間立てれば、家に帰って眠れる。眠れば、明日は治っているかもしれない。

去年までの私だったら、ここで諦めて、そのまま家に帰っていたかもしれない。けれども、財布の中の薄い保険証が、頭の隅で小さく光っていた。

もし本当に倒れたら、ちゃんと診てもらえる。

その安心感が、不思議と私を立たせた。診てもらえるとわかっているからこそ、もう少し頑張ろう、と思える。皮肉なことに、保険があると人は早く休めるはずなのに、私の場合は、保険があるからこそ無理ができてしまった。

午後 4 時、私はもう一度、紅茶のポットを持って店内へ出た。湯気は変わらず立ち上っている。常連たちの顔が、霞んでいるのか、にじんでいるのか、自分でもよくわからない。

それでも、私はその湯気の向こうで、笑顔を返した。 「いつものですね、ありがとうございます」

そして、もうほんの少しだけ、私は立っていられた。


→ もう一方の物語: 第1章「これは強盗か?」

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